私たちが毎日を過ごしている研究室には、たくさんの観葉植物を置いています。
そのお世話を4年生がする事になっていたのですが・・・
どれも元気がない
水遣りをすっかり忘れていました。
先生の奥さんから肥料を頂き、急遽私たちは枯れてしまった葉を切って水をやりました。
これで再生してくれるといいのだけれど。
私たちが毎日を過ごしている研究室には、たくさんの観葉植物を置いています。
そのお世話を4年生がする事になっていたのですが・・・
どれも元気がない
水遣りをすっかり忘れていました。
先生の奥さんから肥料を頂き、急遽私たちは枯れてしまった葉を切って水をやりました。
これで再生してくれるといいのだけれど。
10月20日(日)、佐世保市俵ヶ浦にて開催されました「展海峰コスモスウォーク」に参加してきました。
展海峰は九十九島を一望できる展望台がある展望公園です。
他にも、この公園は秋のコスモス畑が有名で、1haにも及ぶコスモスを楽しむ事が出来ます。
このイベントは俵ヶ浦開発協議会の主催で、今年で10回目の開催となります。
今回のコスモスウォークには地元の小中学生をはじめ、100名近くの方が参加されました。
参加者のほとんどは地元の方ですが、中には俵ヶ浦の外から参加している方もいました。
初めて参加される方は10名程度で、参加者の大半がリピーターのようです。
コースの全長はおよそ7kmで、海有り山有りの起伏に富んだコースとなっています。
歩破するには、早い方で1時間半、ゆっくり歩かれる方で2時間程度かかります。
参加者全員で念入りに準備体操をした後、いよいよ出発です。
歩く時には、道の状態とそこから見える眺望をチェックしながら歩きました。
下の3枚の写真は、ウォーキング中に撮った写真です。
これは庵の浦の竹林の中を通る道です。森林浴をしているかのような気分になります。
野崎町の丘の上からの風景です。遠くには針尾送信所(3本の塔)が見えます。
ルート沿いからはこのように九十九島を一望できるところもありました。
道は緊急時に備えて、車が駆けつけられるように道幅のある舗装されている道が設定されていました。
また、サインは無く、迷いそうなところにはスタッフの方が案内をしていました。
展海峰を出発してから2時間後、再びゴール地点の展海峰に戻ってきました。
僕が到着したときには、8割近くの方がゴールをしており、
ゴールされた方々の顔を見ると、どこかしら達成感・満足感を感じられているようにみえました。
初めてウォーキングイベントに参加しましたが、
心地よい天気の中、遠くの海、農村風景、道路端に咲く花を見ながら、歩くのは大変気持ちの良いものでした。
また、初対面の方同士が会話に花を咲かせながら歩いている姿を見ると、
このイベントが新たな「人のつながり」を作るいい機会になっているようにも感じました。
俵ヶ浦開発協議会をはじめ、ぜんざいを出してくれた地元の方々、本当にありがとうございました。
10月20日(日)に、唐津みなと松原の会で花壇づくりとスイセン植えを行いました。
今回は、去年と同じ松原のCゾーン、去年植えたスイセンの花壇の隣に延長した場所に花壇を作り、スイセンの球根を植えました。
まずは、花壇の位置を決めます。
水が通る道の上に花壇を作ってしまうと、雨が降ったときに土が流れてしまうので、そこは避けるように花壇の位置を決めました。
花壇の位置が分かるように四隅に割りばしを立てて、水糸張って花壇が長方形になっているかどうか確認しました。
花壇の位置決めが終わると、次はその位置にスコップで穴を掘っていきます。
花壇の大きさは縦1.5m横3m深さ10cmです。
土が固く、剣スコップを使っていても掘るのは大変な作業でした。
掘った土には雑草の根と大きな石がたくさん混じっていたので、角スコップを使って土をほぐすと同時に根と石を取り除きました。
根と石を取り除いて土がほぐれたら、そこに腐葉土・牛糞・石灰を入れました。
スコップでしっかりと土を混ぜて、じょうろで水を撒けば、これで花壇作りは完了です。
次はスイセン植えです。
今年は480個の球根を5つの花壇に植えました。
球根はミックスタイプのものを準備したので、大きい球根から小さい球根まで様々でした。
これらの球根を1つの花壇に6行×17列で配置していき、スコップで穴を作り植えていきました。
チューリップの球根は頭の先が少し出る程度に植えるようですが、スイセンは深く穴を掘って植えます。
15人で作業したので、480個の球根も30分で植え終わりました。
花壇に水をやり、花壇の周りに防草シートを敷きました。
13:00から始まった作業が、15:30に終了しました。
12月から4月にかけてどんな花が咲いてくれるのか楽しみです!
みなさんお疲れ様でした!
私の卒業研究テーマは『筑後川の水神祠群に着目した人々の暮らしと川との歴史的関係性の読み解き』でした。この研究より、筑後川に存在する水神祠が91箇所存在することを明らかにしました。写真のように水神祠は筑後川の川沿いに多く立地しています。
しかし、水神祠の明確な建立理由までは明らかに出来ませんでした。そこで、修士論文ではこの研究の続きとして、水神祠の建立理由を明らかとする研究を行います。
1.背景、目的
水神祠とは、水神が祀られている小さな祠のことで、人々の水に対する恩恵と恐怖が神格化し、諸神仏に仮託して信仰という形をとって、現在まで引き継がれてきたものと考えられます。今日も水神祠に関する川祭りが周辺集落の住民により行われています。また、水難除けを祈願し水神を新たに祭る風習は残っています。熊本県人吉市の人吉水天宮は昭和28年8月3日に青年団諸氏の発起により、度々の水害常襲地であった町に守護神として久留米水天宮より分霊を奉斎して祀っています。
筑後川に水神祠が多く祀られている背景には、過去に人々が筑後川と密に関わった営みを行っていたことが関係すると考えられます。筑後川は「日本の3大暴れ川」に名を連ねるほど大水の被害が多い河川でした。また、筑後川から取水するため4大堰と呼ばれる大石堰、山田堰、床島堰、袋野堰が作られました。その他に、川を交通手段とした舟渡し、筏下りが日常的に利用されていました。
その後、生活の変化により川での営みは失われていき、また、治水、利水を主目的とした河川改修川により、過去の川の遺構は失われていきました。しかし、最近の河川整備は、川を本来の姿に戻そうという方向性で取り組みが行われています。
しかし、川本来の姿を取り戻すための手がかりとなる、川で行われた営みを伝える遺構、資料、災害記録等はほとんど残っていない状況です。そのような状況で、水神祠は現在も多く残っています。水神祠は川の営みが行われた場所、災害が発生した箇所に祀られてきたと考えられます。よって、その謂れを明確にすることで水神祠は川で行われた営み、災害箇所を伝える記憶装置の役割が期待できます。そこで本研究より水神祠の建立理由を明らかにします。
2.研究方法
本研究では水神祠の建立理由を明らかにするため、以下の手順でヒアリング調査を実施します。
① 水神祠の建立された理由の分析、ヒアリングシート作成
水神祠の分布図に「古地図」「過去の水害の歴史」「農業利水の歴史」「地域の伝承」を重ね合わせ、水神祠の建立理由を推測する。そこで、ヒアリング調査で確認する項目を整理し、ヒアリングシートを作成します。
②ヒアリング調査
水神祠周辺の地域にいらっしゃる古老を対象にヒアリング調査を行います。ほとんどの水神祠は「私が生まれたときからありました」という話を聞きます。水神祠の刻印を見ると、最も古いもので1799年に建立されています。また、昭和になって建立されているもののほとんどは、水害で流失したものを再建したもので、水神祠自体はそれ以前から存在していることが確認できました。そこで、地域で生まれ育ち、昔の水神祠の記憶をお持ちの古老に話を聞くことで、これ以上は遡れない程度まで水神祠の情報を集めることとしました。
先日からヒアリング調査を実施しています。現在は私に加え、樋口先生も参加して調査を行っています。調査からは、今の筑後川の姿、生活の仕方からは想像できないような話をたくさん聞く事ができています。今後の進捗状況についてはブログで報告していきたいと思います。
10月15日(月)に俵ヶ浦にお邪魔させて頂き、俵ヶ浦町老人会、俵ヶ浦8町内会議に参加しました。
この記事は参加した2つの会のうち、俵ヶ浦町老人会の記事になります。
俵ヶ浦町にて俵ヶ浦町老人会が行われるという事で
九州大学景観研は地元の方にお話を伺いに老人会の方に顔を出させて頂きました。
老人会の方に来られていた地元の方は20名近くいらっしゃいました。
先日、行われました顔合わせ会でも地元の方の熱気に圧倒されましたが、
今回の老人会でも、同じように熱気溢れる会になり、話を聞く学生は圧倒されるばかりです。
前回の顔合わせ会でお会いした方達よりも一世代上の方々でしたので、
前回よりも歴史にまつわる話をたくさん聞く事が出来ました。
いろいろな話をお聞きしました。以下はその一部です。
・丸出の石積みは島原からの石工が来て施工をした。砲台の建設作業は韓国人にも手伝わせていた。
・高後崎にはカマボコ型をした米軍兵舎があった。そこの米軍兵の家事手伝いを地元の日本人女性がしていた。
・現在の俵ヶ浦近辺には跡は残っていないが、隧道の弾薬庫がいくつかあった。
会の終わりの頃には、
老人会会長の佐野さんから「実際に見に行った方がいいから、今度一緒に歩こう!」と声を掛けて頂きました。
大変ありがたいお誘いです。次に俵ヶ浦に行く機会がありましたら、ご一緒させて頂きたいと思います。
今回聞いた話は文献では出てこないような話がほとんどです。
当時生活されていた方から話を聞く事で情報に付随して、
感情・思いも伝わってきて当時の情景がよりイメージしやすいように感じました。
また、このような話をしっかりと次世代の子供たちのためにも、
文章としてしっかりと残しておくことが大切だと思いました。
俵ヶ浦町老人会のみなさん、貴重なお話を聞かせて頂きありがとうございました。